MOROTOの美と文化
MOROTOの歴史
- History -
MOROTOの源流にして諸戸家
中興の祖、
初代・諸戸清六
明治の世、初代・諸戸清六は目先の利益に捉われず、荒れ果てた禿山に木を植えはじめました。当時の経済合理性から見れば気の遠くなるような事業でしたが、それは自らの富のためだけでなく、百年先の国の発展と繁栄を思い描いた「国家百年の計」でした。
また、疫病に苦しむ人々のために巨額の私財を投じて「諸戸水道」を独力で敷設し、町全体に命の水を届けるなど、公共への奉仕も惜しみませんでした。
さらに、清六は「文化の保護」にも取り組みます。室町時代から続き江戸の豪商が築いた名園(旧山田長者屋敷)が荒廃しているのを憂い、三重県の稀有な文化財が失われるのを防ぐためにこれを買い取り、諸戸氏庭園として継承しています。
この森や水を守り育てる公共精神と、失われゆく美を意志を持って守り抜く姿勢は、単なる林業にとどまらず、日本の「文化」を根本から支える土壌となりました。
MOROTOの美意識をつくった
二代目・諸戸精太
MOROTOの歴史を彩るもう一つの柱、それは二代目・精太をはじめとする先人たちが愛し、守り抜いてきた茶の湯に代表される深い美意識です。
茶道とは、建築の設え、道具の美術的価値、生けられた花、季節の移ろい、そして主客の所作が精緻に絡み合う日本の「総合芸術」です。諸戸の家系は代々この美意識に傾倒し、散逸の危機にあった国宝級の茶器や文化財を私財を投じて守り継いできました。考えてみれば、茶室を形づくる美しい檜の柱も、名器と呼ばれる茶碗を生み出す土も、茶を点てる清らかな水も、源流をたどればすべては「山」から来ています。つまり、山に木を植え、森を育てることは、日本文化を構成する「素材」そのものを守り続けることと同義なのです。
私たちが今取り組む「文化の継承と更新」
私たちが今、食や観光という体験の場を提供しているのも、ただ過去の遺物を消費するためではありません。その過程において最も重要なのは、本物の文化財と素材、そして、美意識を守り抜くことです。伝統は、ただ保存するだけではなく、時代に合わせて「更新」し、人々の生活の中で手にされることで初めて未来へと受け継がれていきます。
御殿玄関、車廻し
〈重要文化財〉:明治28年完成
木造、桟瓦葺、一部銅板葺
御殿への玄関となる建物である。正面に構える車寄せをはじめ、数棟で構成される。当初の計画変更が特に多い建物で、改変の跡が各所に見られる。接客とサービスを分けた二筋の廊下、寄木細工の床やシャンデリアなど、当時の要人等の来客を非常に意識したしつらえとなっている。
様々な政・財界人を招き接客をした歴史の舞台でもあり、記録に残るだけでも、大隈重信、益田孝、山縣有朋、高橋箒庵、野崎広太が訪れた。
広間は初代諸戸清六が大隈重信等を招いて宴会をするなど、明治期には特別な客を接待するのに使用していた。
菖蒲池
菖蒲池を中心とした回遊式庭園は、本庭園の中でも歴史的に最も古い部分である。菖蒲池を中心に、西に推敲亭、東に藤茶屋、北に蘇鉄山と稲荷祠がみえる。
春にはつつじ・藤・菖蒲などの花々、秋にはどうだんつつじ・もみじの紅葉など、四季折々の美しさを楽しむことができる。
御殿広間と池庭
広間〈重要文化財〉:明治24年上棟
木造桟瓦及び銅瓦葺
当初の地盤改良として田沼の上に盛土を施すとともに柱筋に石垣を地下2m程下から積上げた。そのため庭園と比べてかなり床が高くなっている点が特徴的である。
東西面はほぼ全てが開口部となっており、柱を極力少なくしている。景色を一体的によく見せる開放的な空間を意図したとみられ、初代清六のこだわりを感じさせる。
池庭は出羽の本間邸や近江八景を模したと伝えられている。